芸道


 芸道というものは、その道に殉ずるバカにならないと、大成しないものである。


 文化の高まるにしたがって、人間は迷信的になるものだ、ということを

 皆さんは理解されるであろうか。

 角力トリのある人々は目に一丁字もないかも知れぬが、彼らは、否、

 すぐれた力士は高度の文化人である。

 なぜなら、角力の技術に通達し、技術によって時代に通じているからだ。

 角力技の深奥に通じる彼らは、時代の最も高度の技術専門家の一人であり、

 文化人でもあるのである。目に一丁字もないことは問題ではない。


 高度の文化人、複雑な心理家は、きわめて迷信に通じ易い崖を歩いているものだ。

 自力のあらゆる検討のあげく、限度と絶望を知っているから。


 すぐれた魂ほど、大きく悩む。大きく、もだえる。


 大力士双葉山、大碁家呉八段、この独創的な二人の天才がジコーサマに入門したことには、

 むしろ悲痛な天才の苦悶があったと私は思う。ジコーサマの滑稽な性格によって、

 二人の天才の魂の苦悩を笑殺することは、大いなるマチガイである。


 文士も、やっぱり、芸人だ。職人である。専門家である。

 職業の性質上、目に一丁字もない文士はいないが、

 一丁字もないと同様、非常識であっても、

 芸道は、元来非常識なものなのである。


 一般の方々にとって、戦争は非常時である。

 ところが、芸道に於ては、常時に於てその魂は闘い、戦争と共にするものである。

 他人や批評家の評価の如きは問題ではない。

 争いは、もっと深い作家その人の一人の胸の中にある。その魂は嵐自体にほかならない。

 疑り、絶望し、再起し、決意し、衰微し、奔流する嵐自体が魂である。


 力士は棋士はイノチをかけて勝負をする。それは世間の人々には遊びの対象であり、

 勝つ者はカッサイされ、負けた者は蔑まれる。

 ある魂にとってその必死の場になされたる事柄が、

 一般世間では遊びの俗な魂によって評価され、蔑まれている。

 文士の仕事は、批評家の身すぎ世すぎの俗な魂によって、バナナ売りのバナナの如くに、

 セリ声面白く、五十銭、三十銭、上級、中級と評価される。


 然し、そんなことに一々腹を立てていられない。

 芸道は、自らのもっと絶対の声によって、裁かれ、苦悩しているものだ。


 常時に戦争である芸道の人々が、

 一般世間の規矩と自ら別な世界にあることは、理解していただかねばならぬ。

 いわば常時に於て、特攻隊の如くに生きつつあるものである。


 常時に於て、仕事には、魂とイノチが賭けられている。

 然し、好きこのんでの芸道であるから、指名された特攻隊の如く悲痛な面相ではなく、

 我々は平チャラに事もない顔をしているだけである。


 バカモノ、変質者、諸君がそう思われるなら、その通り、

 元々、バカモノでなければ、芸道で大成はできない。


 芸道で大成するとは、バカモノになることでもある。



            坂口安吾著『太宰治情死考』( 筑摩書房「坂口安吾全集 第07巻」) より

            適宜抜粋、省略を施し、レイアウトも変更しています。





何かいい箏ないかな

東京都杉並区にある箏と三味線のお教室です。なにかいいコトが見つかるはずです。

0コメント

  • 1000 / 1000